13,800円
まだ私が生まれる前の昭和33年、当時ラーメン一杯と10本入りピースのタバコが、共に40円であった・・・と。
著:なかにし礼「わが人生に悔いなし」の中に書かれている。

来年で昭和100年だから、67年間ほどで物価は、約16倍??17倍ってか???
当時、喫茶店のボーイとして、一日精一杯働いて300円。
そんな時代に、著者中西氏が住んでいた部屋といえば、三畳間で家賃500円。
当時の学生街の下宿屋は、三畳間•朝食付きで3,000円が相場だったことから考えると、いかに安い家賃の部屋だったかがわかる。
そんな格安の部屋はといえば、陽は射さず、風も通らず、畳は茶色に変色し、湿気を含んで膨らんでいる。
夜になると、押入れからゴキブリがゾロゾロ這い出してくる。20匹も30匹も・・・。
そんな貧乏を絵に描いたような部屋であった。
ということだ。
昭和前半生まれの多くは、戦争で死に直面したり、飢えや貧乏のどん底で地を這うような苦労を味わった。
そういう苦労があればこそ頑張れたのだろうと思う。
ただ当時の多くは、苦労を苦労とも思っていなかったろうし、貧乏な身の上を悲観することもなかったはず。
そんな当時の月収で、13,800円あれば「贅沢しなけりゃ食える」らしかった。
いつ頃聞いたか、の記憶は定かではないが「そういえばこんな歌あったよな〜!?」
「タイトルだけではピンと来なかったが、聞いたこと「ある!ある〜!」
いや〜!懐かしい。
私の記憶の中のフランク永井といえば「君恋し」「有楽町で逢いましょう」だ。
ちなみに、著者のフランク永井への作詞曲は「知りたくないの」だそうな。
陽極まれば陰となる。
1985年(昭和60年)10月21日(当時53歳)、自宅の階段でロープを括り首吊り自殺を図る。その数分後に永井夫人によって発見され、発見が早かったこともあり辛うじて一命は取り止めた。だが脳に障害が残り、会話が不自由となったほか、記憶が乏しくなるなどの後遺症を患ってしまう。